【事件簿】


『ホームズと生ける屍1』



 悪臭の原因に慣れた頃、すでにサセックスの養蜂場でもその兆候は現れていた。過去の遺物として忘れさられた我らが私立探偵は、日課の女王蜂研究帳にこう記していたのだ。


 ――畑から10ヤードほど離れた所に、私のトビー三世が棒で繋がれている。


 彼は年老いて足元も覚束なく、この実験が失敗した暁には銃弾で即座に命を奪うことを約束されていた。成功した場合は魚肉ソーセージを、たらふく食べられる権利を与えると言ったところ……決然とその場に自ら留まったのである。

 畑の中ではカリフラワーを脳みそと間違えた生ける屍どもが、その青白く焦点の合わない目をさ迷わせて野菜を貪り喰っていた。

 犬に気づくのは時間の問題である――。

 探偵は鹿打ち帽の耳当てを下ろした。それ自体は彼が若い時分に愛用していた飾りだったが、震える手に猟銃を持っている今のような状況では、何かのお守りのように思えるのだ。

 距離はそれなりに離れているが、いつ襲われても不思議ではない。丘の窪みに身を寄せて、『奴ら』がこちらを注視せず犬に気づくのを待った。広大な土地のおよそ半分以上が草原に覆われ、入り組んだ夜間の森では毎夜毎夜と村の人間が襲われている。


 探偵の本名を知る者は少なくなった。


 彼は引退してから別の名前を使い続けたし、その意味を理解して頼ってくる人には「人違いですよ」と常に断ったからだ。

 この実験が予測不可能な事故に見舞われて役目を終えられないのなら、彼はトビー三世と共に養蜂学者シーゲルソンとしての墓標が立てられるだろう。

 ロンドンの治安を守って働いていた兄や警察関係者の友人、完治しようのない患者の治療に励んでいるかつての相棒を思った。


 ――ワトソン君、私にもまだ何かできるはずだ。


 トビー三世はこちらに尻尾を向け、微動だにしないまま、畑でうごめく生き物を見ている。探偵の方は振り返ろうとしない。健気にも遠くにいる主人に代わって探偵を守ろうとしているのだ。

 親友から贈られた犬であった。

 初対面のとき癇癪持ちの意味で言った「ブルドックの子犬」ではない。茶色い雑種の短足で太めの犬だ。ちょっぴり髭のように見える毛並みが可愛いかった。

 寂しい農場のひとり暮らしの中、暖炉の前で本を開けば足元に平伏して尻尾を振ったものだ。

 まるでワトソン君そのものである。

 かつてその人はうっとりとした目で自分のことを見つめ、「ホームズ、君は素晴らしいよ!」とやまびこのように繰り返したのだった。

 床で抱きしめられた足が火のように熱く、握られた手の甲に受けた接吻に「初歩的だとも」とそっぽを向いて返した遠い日の記憶。高鳴る胸が抑えきれず、(僕がご主人さま!)と目尻に涙を溜めて感極まり、勝手に股間を汚した妄想プレイの日々。


 ――そのすべては過去の出来事になってしまった。


 彼はあの霧の街に残り、僅かな余生を役に立たない慈善事業に費やして生きることになったのだ。





 謎の疫病により生ける屍すなわち死者の大群が、大英帝国を支配していたからである。








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